中国古典の世界①

こんにちは。Sです。

僕は,歴史に勝るとも劣らないくらい中国古典が好きです。中国古典を読むと,ものごとを見る時の新たな視点を提供してくれたり,自分の固定観念を崩してくれたりする感じがとても面白いからです。それに,悩み事があったり,どうしたらいいか迷うことがあったりしたときに,中国古典を読むと,昔の賢人が自分にそっと寄り添って悩みや迷いを聞いてくれる感じがするのも読んでいて楽しいです。また,僕という人間の本質的な部分が中国古典と相性がいいのだと思います。今回からのシリーズでは、そんな僕がおすすめする中国古典の一節を紹介していきたいと思います。記念すべき第一回目は僕の座右の書である、「菜根譚」洪自誠 著(岩波文庫)にある後集132の一節をどうぞ。

〈書き下し〉
世人は営利の為に纒縛せられて、動もすれば塵世苦海と曰う。知らず、雲白く山青く、川行き石立ち、花迎え鳥咲い、谷答え樵謳うを。世もまた塵ならず、海もまた苦ならず、彼自ら其の心を塵苦にするのみ。

〈現代語訳〉
世間の人々は名利の念に束縛せられているので、とかく此の世を塵世だとか苦海だとかいいがちである。しかしそれは自然の美しさを知らないからだ。空には雲は白く山は青く、川には清らかな水は流れ岩はそばだち、野には美しい花は咲き鳥はよい声で歌い、谷にはこだましきこりは歌っているのを。(この自然の美しさを知れば)この世は塵世でもなく苦海でもない。世間の人々は自分で自分の心を束縛し塵世だ苦海だとしてしまっているだけである。 日々生活をしていると,うまくいかなかったり,思い悩んでしまったりして,後ろ向きな気持ちになることがあります。そんなときにこの一節を読み,少し散歩をすると,気分がリフレッシュされて,新たな一歩を歩むことができます。たぶん,気持ちと身体がリフレッシュされるのだと思います。みなさんは,この一節にどんなことを感じましたか。もし機会があれば,教えて頂けると幸いです。ここまで読んでいただき,ありがとうございます。

投稿日時:2023年06月23日 13時56分35秒

素王の歩んだ道④

こんにちは。Sです。

最近,このブログに書きたいことがたくさんたまってきています。「戦国策」,長平の戦い,楚漢戦争,「司馬懿 軍師連盟」,終わりなき混沌の時代 五胡十六国時代,偉大なる黒くて丸いおじさん宋の太祖 趙匡胤,乞食坊主からの成り上がり皇帝 朱元璋と大軍師 劉基,政治のオーガ 雍正帝,孫文と毛沢東などなど。あるいは,たまには古代ギリシャ・ローマ史も書こうかなぁって思ったりもします。ソクラテス・プラトン・アリストテレスの三点セット,「ローマの盾」クィントゥス・ファビウス・マクシムスと「ローマの剣」マルクス・クラウディウス・マルケルス,パーフェクト司令官 スラ,テレワーク皇帝 ティベリウス帝とかとか。でもあえて,今回も前回に引き続き,孔子の生涯を書いていきます。理由は単純で,面白いからです。前回,孔子の生涯をブログに書いていたら,筆がいい感じに乗ってきたところで,前回は終わってしまったので,今回はその続きから書いていきます。

さて,前回,老子からありがたい言葉をもらった孔子はその後どうなったのでしょうか。孔子は周より魯に帰っていました。礼を学ぶために周の国へ行っていたはずですが,特に具体的な描写はありません。ただ,ここから,孔子は物知り博士的な活躍をすることになります。だから,何か学んだのでしょう,たぶん。当時,魯の国は周囲を晋,斉,楚の勢力に囲まれていました。基本的には,魯は斉との関りを語られることが多いのですが,小国の悲しさというか,実際は全方位平身低頭外交でした。魯の昭公20(前522)年,斉の景公が晏嬰とともに魯にやってきました。この時,斉の景公が魯に来た理由は不明であり,「史記」の斉太公世家も魯周公世家も「魯の郊外に遊猟し,魯を訪問した」としか記載がありません。魯周公世家には「礼をたずねた」とあり,この後の孔子との問答から,お人好しに解釈をすれば,礼の盛んな魯の国に遊学に来たとも考えられます。ちなみに,魯の国は周公旦ゆかりの国であるため,礼が盛んな国としても知られており,「史記」だけでなく,「戦国策」の中でもそのように記述があります(趙の武霊王の逸話など)。話を戻しまして,斉の景公の訪問目的ですが,普通に考えて強制外交の一環だったのでしょう。「遊狩」と聞くと,趣味の狩りでもしていたのかなと思うところですが,前近代で狩りといえば軍事訓練のことです。もちろん,本物の軍事訓練ほどの物々しさではありませんが,意味するところは同じです。相手に与える圧力としては「狩り<本物の軍事訓練<出師(軍隊を出動させること。ただし,まだ戦争状態には入っていない。)」という感じでした。時間は空いてしまいますが,「史記」の魯周公世家には,斉の景公の訪問の五年前に魯の昭公が晋を訪れて前代の葬儀に参列したと記載されています。これは,単に晋の葬儀に参列しましたという意味ではなく,晋の支配下にはいりましたということを意味するので,斉としては強制外交で魯を自分の支配下に置こうとしたのでしょう。もし魯が外国勢力の支配下にはいってしまうと,地理関係的に斉は喉元にナイフを突きつけられている状態になるためです。さて,魯に来た斉の景公ですが,孔子に会うと,こんなことをたずねました。「むかし,秦の穆公は国は小さくて僻地に位していた。それでいて,諸侯に覇を唱えることができたのはどうしてだろうか。」すると,孔子はこのように答えました。「秦国は小さくはありましたが志は偉大で,僻地に位していてもおこないは中正でありました。穆公自ら五羖(百里奚)を挙用して大夫の爵をさずけ,罪人として繋縛してあるなかから起用してともに語ること三日,その賢をみとめてこれに政権をさずけました。このようにしたのでありますから,王者になることもできたのであります。覇者にとどまったのは卑小というべきであります。」すると,景公はよろこんだ。(「史記」中 司馬遷.著 野口定男.訳 平凡社版 中国の古典シリーズ1)この問答はようするに,斉の景公が自身を秦の穆公に仮託して魯は私を覇者として認めるかという問いに対して,孔子が晏嬰を賢者の百里奚に仮託して賢者を用いて国を富ませた斉の景公は覇者どころか王者になるべきお方だと思うとお世辞を言っている箇所になります。実際の晏嬰は百里奚に比肩しますが,秦の穆公は名君であり斉の景公は暗君であるため,この孔子の発言は外交上のお世辞といえます。前回,季氏の臣下である陽虎とのやり取りで,孔子はお世辞が言えない人のように記載しましたが,このようにお世辞が使えることもありました。「論語」でも「史記」でも,孔子は実に人間らしく描かれており,以前にこのブログでも書いたかと思いますが,孔子の魅力はこの人間っぽさにあると僕は思っております。つまり,完璧な人間であろうとするが,時には己の弱さにくじけそうになることがあります。しかし,また前向きに自分の理想に向かって人生を歩んでいくのです。2500年以上の間,人々はその姿に惹きつけられてきたのでしょう。孔子の人生としてはほとんど進めることができませんでしたが,今回はここまでとします。最後まで読んでいただきありがとうございました。次回もご期待ください。

投稿日時:2023年06月01日 10時35分23秒

素王の歩んだ道③

こんにちは。Sです。

最近は私事が立て込んでしまい,ブログを書けていませんでした。しかし,今日は久しぶりに「素王の歩んだ道」シリーズを更新したいと思います。「素王」とは孔子のことです。今回も孔子のかっこいい人生を,みなさんと一緒にみていけたら幸いです。

父と母の合葬を済ませた孔子は,経書を抱えて勉学に励んでいました。そのころ,魯の大夫の季氏が士人を饗応しており,孔子も招待を受けました。ところが,季氏の臣下である陽虎に,孔子が若くて身分の低いことをとがめられて門前払いされてしまいました。ちなみに,この陽虎と孔子は顔が似ていたらしく,後年,孔子はそのせいでトラブルに見舞われてしまいます。さて,陽虎によって季氏から拒絶されてしまった孔子ですが,彼を認めてくれている人はおり,魯の大夫の孟釐子といいました。彼が死の間際に,自分の嗣子に孔子の弟子となるように遺言していました。彼がなくなると,嗣子の懿子と南宮敬叔が孔子のもとで礼を学ぶようになりました。この南宮敬叔は孔子の「七十子」といって,特に優れた弟子として有名であり,論語にも登場します。ここの対比がドラマチックで面白いですよね。政治の世界のトップとはそりが合わなかったが,同時期に自分の学問を不朽の物としてくれる弟子を手に入れていますね。これは僕の憶測ですが,季氏の邸宅に招待された際,陽虎へ取り次ぎに対する付け届けと,彼に媚びた姿勢を見せていれば,孔子は政界の大物とこの時にお近づきになれていたと思います。ただ,この後もたびたび出てきますが,孔子の不器用な性格のせいでそのチャンスを逃してしまいました。個人的な考えとしては,彼にとってはそれが正解だったと思います。話を戻しますと,弟子を得た後の孔子は,いろいろな職を転々としたり,諸国を放浪したりします。孔子はこのような経験を,この後も何度もします。政治家よりも思想家の方が向いていたのかもしれませんね。話は全く変わりますが,孔子は身長が九尺六寸(約2m)もあったらしく,人々から「長人」と呼ばれていたそうです。まあ,これは,中国の帝王によく付随するトンデモエピソードの一つかもしれませんが。先ほど,登場した南宮敬叔の口利きで,孔子は魯の使節として周の国へ行くことになりました。「史記」の書き方では,南宮敬叔が孔子に同行したいと魯の君主にお願いしたから,彼は孔子についていけることになったと書かれていますが,まあどうみても彼が頼んだから孔子は使節として周に行けることになったとしか読めませんよね,今までの経緯的に。それは置いておいて,孔子にとってはあこがれの周の国への訪問ということで,テンション爆上がりだったのではないでしょうか。しかも,この周訪問で孔子はある重要人物と出会ったとされています。それが,このころ周の国の守藏室の史(書庫の記録官)を務めていた老子です。この老子は,あの「老子」を書いた李耳のことです。二人が出会い,何を話したかは伝わっておりません(荘子の逸話などはあり)が,別れ際に孔子は老子から次のような言葉をもらいました。「わしは,富貴なものは人を送るのに財物をもって餞別とし,仁人は人を送るのに言葉をもって餞別にすると聞いている。わしは富貴にはなれない。そこで,仁という名をかりて,そなたに言葉をおくろう。聡明で深く事理を察していながら,死ぬような目に遭うのは,他人を誹議することが好きなものだ。非常に能弁でよく物事にゆきわたっていながら,その身を危うくするのは,他人の悪をあばくものだ。人の子たるものは,我をもっていてはいけないし,人臣たるものも,我をもっていてはいけない」(「史記」中 司馬遷.著 野口定男.訳 平凡社版 中国の古典シリーズ1)これについてもいろいろといいたいことはありますが,今日のところはこの一言でまとめさせていただきます。「かっこいい。」漢文の書き下しもかっこいいですが,漢文訳もかっこいいのが多いですよね。今日のところはこのあたりにしておきます。ここまで読んでいただき,ありがとうございました。続きを楽しみにしていてください。

投稿日時:2023年05月26日 19時02分53秒

中国史が流行って欲しい2

こんにちは。Sです。少し期間が空いてしまいました。実は、みなさんに紹介したい本があったのですが、読破するのに時間がかかってしまったからです。しかし、ついに読み終わって、このブログにかける日がきました。その本とは「図説中国文明史」全10巻です。今回は、この本と最近気になっている分野、それともう一つおまけの話をさせてください。

まず、「図説中国文明史」についてです。この本は中国で出されて日本語訳された本で、その名の通り、中国の文明史にスポットをあてた本となっています。そのため、政治史が少なめという特徴があります。というか、必要最低限しか触れられていません。でも、中国史好きにとって、これはむしろ高得点ではないでしょうか。なぜなら、中国の文物についてわかりやすくまとめた本が日本では少ないからです。この本は、中国史の社会、軍事、経済、農業、文化、学問、宗教など、ありとあらゆることをテーマとしており、翻訳された本ながら大変読みやすいものとなっています。さらにもう一つ、この本をみなさんにおすすめしたい点が資料の豊富さです。各巻約400点のフルカラー図版という贅沢さ。ただ、残念ながら中華民国以降の巻はないので、そこは注意してください。本当なら内容についても触れたいのですが、この本の最大の特徴は資料の豊富さにあると思っているため、ここではその点について,これ以上は語ることが難しいです。ただ一つ蛇足を加えるとしたら中国で作成された本だけあって、この本では、日本ではあまりみられない資料がたくさん掲載されています。みなさんにこんな本があるのだと知ってもらい、実際に手に取ってもらえれば幸いです。中国史好きなら、この本を手にとったら、その先は自然と指がページをめくらずには
いられないと信じています。そのため、これ以上は何も申し上げません。

次に話したいのが、最近気になっている分野についてです。それは、中国史に出てくる異民族についてです。以前、紹介したYou Tuberの「鳥人間 中国史三昧」というチャンネルで,モンゴル帝国の回を見て、それがとても面白く、そこからさまざまな異民族が気になっています。その中でも、みなさんに今日紹介したい異民族は女真族です。その中でも特に、金王朝を樹立した完顔阿骨打です。ちなみに、異民族についてはまだ詳しくないので、ここから話すことは「鳥人間 中国史三昧」チャンネルの受け売りということを、先にお断りさせていただきます。完顔阿骨打は女真族のうち、生女真の完顔部に生まれました。当時の女真族は契丹人が建てた遼王朝の強い影響を受けていました。阿骨打が生まれた生女真は女真族の中でも,遼に服属していない女真族の一派でしたが、完顔部は貢納や交易を通じて遼と関係を持っていました。阿骨打は若い頃から剛毅果断かつ寡黙な性格で,英雄然とした風格を漂わせていたそうです。例えば、遼の皇帝が開いた宴で踊りを求められた際に、これを毅然と断ったというエピソードがあります。1113年に兄が死ぬと、阿骨打は完顔部の首長と遼の皇帝から与えられた節度使の位を継ぎました。さらに女真族の諸首長のリーダーとして,都勃極烈(トボギレ)も称しています。すると、阿骨打はかねてより遼に対して,不満を高めていた生女真の諸部を集めて,「海東青は我らの土地に産しながら、遼の空を飛んでいる。悔しいとは思わないのか。」と叱咤し、彼らを奮い立たせました。そして完顔阿骨打は遼に対して反旗を翻し、各地の遼軍を破って勢力を広げました。ちなみに、海東青とは狩猟用の鷹のことで、遼の王侯貴族が鷹狩りに愛用していました。女真族は多大な犠牲を払って,遼に海東青を献上していました。その後、1115年に女真族による国家の樹立と
自身の皇帝即位を宣言しました。これを金王朝といいます。なお阿骨打は、「遼は精錬した硬い鉄を国号としたが、鉄は結局変色して崩れ去る。しかし、金はそうはならない。金は白く、我々は白を貴ぶのだ。」とも言ったそうです。遼への対抗心の激しさを表すような言葉ですね。さて、ぶっちゃけて言えば、僕は「」で示した阿骨打の2つの言葉がすごくカッコいいと思い、それを紹介したくて彼を取り上げたので、正直もう満足しています。そこで、彼の物語は一旦ここまでとさせてもらいます。続きが気になる方はぜひ「鳥人間 中国史三昧」チャンネルでご覧ください。ちなみに、また蛇足を加えますと、ここからの彼の物語も心を熱くさせる、素晴らしい話がたくさんあります。つまらないから話をやめるわけではありません、ということを付け加えさせてもらいます。

最後におまけの話として、最近始めたことを紹介させてください。新釈漢文大系「戦国策」を読み始めたことと、中国時代劇「三国志~司馬懿 軍師連盟~」を見始めました。2つともまだ途中ながら、このブログで複数回にわたって取り上げたいほどの素晴らしい内容です。そのうち、今回は、新釈漢文大系「戦国策」で、特に面白かった話を一つ取り上げさせていただきます。ちなみに、「戦国策」についてはまた紹介しますので、今回はそういう本があるのだな,くらいでお願いします。あと今回は、細かい時代背景などの説明を省略し、正しい用語よりもわかりやすい表現を優先して使うことをあらかじめご了承いただけますよう、よろしくお願いします。それでは、始めます。戦国時代のある時、西周の太子(世継ぎ)が亡くなりました。西周の領主には5人の息子がいましたが、代わりの太子を誰にするかは決めかねていました。そこで、楚の大臣の司馬翦が王に、「5人の息子のうち、咎に土地を与えて西周の太子にするよう、西周の領主に働きかけましょう。」と進言しました。すると、楚の説客の左成が司馬翦へ説いていいました。さて、ここで一度考えてください。左成は司馬翦になんと説いたと思いますか。答えは、「西周の領主が楚の王の要請を聞き入れなければ、あなたは窮地に立たされ、楚と西周の関係はギクシャクします。それよりも司馬翦様は西周の領主にこう言ったらどうでしょうか。『西周の領主様は誰を太子にしようとされているのですか。それを私に教えて頂ければ、私(司馬翦)が楚の王に説いて、お望みの太子に土地を与えるように楚の王へ進言しましょう。』ただし、この策を実行する前にやるべきことがあります。楚の相国(総理大臣みたいなもの)の側近に使い(使者)をやって『楚の王は司馬翦に西周の太子を助けたいそうです。この男(司馬翦)は手強い相手なので、国内においておいたら相国のためにはなりません。』と告げさせるのです。」すると、相国は王に対して,司馬翦に西周の太子を助けさせるよう画策してくれたそうです。この話のすごさが伝わったでしょうか。司馬翦は楚の王のために西周の太子擁立に一役買い、楚の勢力を西周に植え付け、あわよくば、自分も太子擁立の功によって西周に勢力を張ろうとしたのです。これに対して、説客の左成は、西周の領主が司馬翦の要請に従わないと、楚と西周の関係が悪くなると示唆するとともに、自分の進言通りにすれば、西周の領主は自分が望む子を太子にでき、また、楚も西周に勢力を張ることができると言いました。しかし、そのような功績を建てると、相国一派が司馬翦を恨み、その身が危うくなるとも考え、そこで、相国の側近を唆して、司馬翦が西周で工作がしやすくなるように仕向けて、四方八方を丸くおさめながら司馬翦の望みを叶えさせたのです。このような策を献じた左成は規格外の策士と言っていいのではないでしょうか。こんなにも短い話ながら複雑な中国の政治の世界をみごとに表現している「戦国策」に興味を持ってくれたら嬉しいです。 次回は久しぶりに孔子の物語を再開しようと思っています。こちらも楽しみにしていてくれたら幸いです。

投稿日時:2023年01月05日 13時47分43秒

中国史が流行って欲しい―1―

こんにちは。「水滸伝」が流行って欲しいと思っているSです。
中国史がもっと日本で流行って欲しいので、「三国志演義」の次に有名な「水滸伝」の人気に火が付いて中国古代史以外の時代や文化に派生させたいって思っています。

「水滸伝」は中国の宋王朝を舞台にした物語です。中国では昔から「少不看水滸、老不看三国」(若者は「水滸伝」を読むべからず、年寄りは「三国志」を読むべからず)と言われています。若い人が「水滸伝」を読むと血気盛んになり、年配の方が「三国志演義」を読むと老練になるからです。まさに「水滸伝」の魅力を一言で表しきった見事な言い回しです。「水滸伝」の魅力としてよく語られるのが庶民にスポットを当てた物語ということです。「三国志演義」は劉備、曹操、諸葛亮、関羽など、まさに英雄たちを登場人物とした物語であり,読んでいてとてもワクワクします。ただ、彼らはあくまで英雄や豪傑であって,「三国志演義」を読んでもかれらの悩みや苦悩、葛藤には共感ができないと思います。自分を英雄や豪傑だと思っている人は別ですが。普通に生きていて、私の力で日本を世界一の経済大国にするぞ、なんて人はなかなかいないですよね。それに対して,「水滸伝」の登場人物は役人、塾の教師、漁師、無職の人など,あくまで一般の人々です。梁山泊の初代首領の王倫なんて元浪人生(科挙の落第生)です。だから、かれらの悩みには読者の僕たちにも共感できる部分が多く、そのため、登場人物の気持ちになることができるのです。その悩みの解決法にはたぶん共感できない部分が多いとは思いますが。あと、個人的に「水滸伝」の魅力だと思っているのがあだ名のカッコよさです。梁山泊の好漢たちはもちろん、超モブキャラの牛二のあだ名は没毛大虫です。このキャラはたんなる町のごろつきで、青面獣の楊志の物語で一瞬だけでてきます。ちなみに、この楊志は花石綱の運搬に失敗し、責任追及を恐れて、官職を捨てて逐電した人物です。みなさんも仕事や飲み会で失敗して逃げ出したくなることはありませんか。そういう経験のある人は楊志の気持ちがよくわかると思います。ただ、本当に逃げ出すのはどうかと思いますが。これは個人的な意見ですが、音の響き的に好きなあだ名は托塔天王(たくとうてんのう)の晁蓋(ちょうがい)です。ところで、「水滸伝」は当時の庶民の希望を取り入れまくった作品でもあります。これは「水滸伝」が都市部で流行した講談によって成立したことによるものです。だから、「水滸伝」の登場人物の中にはそれほど身分が高くなかったり、働いていなかったりする割には妙にお金を持っていてたくさん飲み食いする場面が多々見られます。まぁ、楊志みたいにお金がなくて先祖伝来の家宝を売りに出そうとする人もいますが。「水滸伝」の好漢達の金遣いが荒いのは,「『水滸伝』を読むー梁山泊の好漢たち」(伊原弘 著、講談社現代新書)によると、当時の庶民の希望を取り入れたものではないか、とのことです。つまり、視聴者のニーズを取り入れた結果の情景ということですね。また、「水滸伝」には、唐代からすでに庶民の人気だった「三国志演義」の要素も多分に取り入れています。小温侯の呂方や病関索の楊雄など、あだ名が「三国志演義」にゆかりのある人物が登場します。また、関羽と張飛になぞらえた大刀の関勝や豹子頭の林冲などの人物もいます。これは「三国志演義」好きにはポイントの高い点ではないでしょうか。

ここまで、「水滸伝」の登場人物の魅力についてごくごく簡単に書きました。本当はもっといっぱい書きたいことはありますが,今回はこの辺にしておきます。ここまで読んで,「水滸伝」に興味を持った方は是非見てみてください。本(岩波文庫)とドラマ(「水滸伝 All Men Are Brothers」)の両方があるので,どちらから入ってもいいと思います。今後,「水滸伝」の舞台となっている宋王朝や中国史の他の時代も伝えさせていただけたらなと思っております。次は「隋唐演義 〜集いし46人の英雄と滅びゆく帝国〜」を手ががりとして隋唐時代について語りたいなぁって,今のところ思っています。その際は,温かい気持ちで読んでやってください。

投稿日時:2022年09月16日 14時54分27秒

素王の歩んだ道②

こんにちは。Sです。

皆様、お盆はいかがお過ごしでしたか。僕は「史記」と「三国志」を堪能していました。中国古典はやっぱり楽しいですね。そう思うと同時に、注意していないと、中国古典の沼にはまりこんで,それしか読まなくなってしまう危険性を改めて感じていました。それでは孔子の言う「学びて思わざれば即ち罔し」となってしまうなぁと痛感しました。というのも,中国古典は面白いので,ついつい没入してしまうのですが、他の人の本を読んだり、解釈を聞いたりしないと、自分だけの解釈になってしまうからです。やはり、他の人の著作や考えから自分の解釈との差違を知り、切磋琢磨することが大切ですよね。ちなみに、「切磋琢磨」は「詩経」衛風・淇奥篇に出てくる言葉で、孔子も「論語」で,この言葉について触れています。その孔子について、今回は話していきたいと思います。出典は前回の「素王の歩んだ道①」をご覧ください。

孔子は魯国昌平郷陬邑(現在の山東省曲阜)で生まれました。この魯の国は孔子が最も尊敬している周公旦を起源とする国です。周公旦とは何者かを簡単に言うと、周建国の功臣の一人です。昔から疑問なのですが、もちろん周公旦は偉大な人物なのですが孔子は周公旦が自分の国にゆかりがある人だから,ことさらに持ち上げるんじゃないかなぁって思っています。まぁ、周公旦はまごうことなき、中国史の巨人なのですが。孔子の祖先は宋の国出身です。もちろんご存じとは思いますが、この宋は劉宋でも趙宋でもありません。殷の後裔が周に封建されて建てた国です。まぁ、中国古典の世界では,ちょっと残念な役回りが多い国です。ところで、これも面白いなぁって個人的には思うのですが、孔子は周王朝単推しみたいな人なのですが、その出自は殷とゆかりがあるんですね。でも、「論語」で殷が出てくるときは,たいていは紂王の事業であり、ネガキャンがすごいです。自分の出自よりも育った国にゆかりのある王朝をヨイショするのはちょっと面白くないですか?まぁ、孔子が生まれたときに実在したのが周王朝であり、これから出仕しようとしている国が,周とゆかりが深いからというのも,関係しているかもしれませんが。孔子は叔梁紇と顔氏の女とが野合をして生まれた子です。野合とは正式な手続きを経ずに,男女が結ばれることです。孔子は礼楽の鬼みたいな人物なのですが、自身の生まれは礼に則っていないようです。あえて言う必要はないかもしれませんが、僕が言いたいことは,それがいいとか悪いとかの話ではありません。孔子は,自分の出自と生き方が自身の理想とマッチしていなくても,それでも自分の理想を追い求めていたということで、そこが孔子のカッコいいところです。ちなみに、こういったことは,孔子のこのあとの人生でも常につきまとい、それでも自身の理想に向かって歩み続けているところが,孔子の注目ポイントです。孔子は生まれてみると、頭の中央がくぼんでまわりが高かったので,「丘」と名付けられました。生まれてすぐ容姿をいじられるという,今の倫理観的に問題のある名付け方ですね。このエピソードと、先ほどのエピソードから,孔子の家系はそれほど高貴ではなかったのかなって思っています。まあ、一概には言えないのですが。「史記」はこのように,孔子の名の由来を話していますが、同じ「史記」の記述で「尼丘」で祈って,孔子を授かったとあるので,個人的にはそちらが由来ではないのかなぁって思っています。というのも、孔子の名を「丘」といい、字を「仲尼」というからです。字の「尼」と名の「丘」で「尼丘」というわけです。字とは簡単に言うと、呼び名みたいなものです。古代中国では,名を呼べるのは親と主君だけで、それ以外の人が名を呼ぶのは失礼とされました。そのため、名の代わりに字を付けてそれを周囲の人に呼んでもらいました。基本的に、字は名と関わりの深い言葉が選ばれる傾向にあります。ちなみに、「仲」は次男という意味です。これは完全に余談ですが、漢の高祖劉邦の字は「季」といい、意味は末っ子です。明の洪武帝は名を「重八」といい、これは「八番目に生まれた男の子ども」という意味です。日本でも太郎、次郎と言うように,生まれた順番を名前とするのは日中で共通する文化なんですかね。孔子が生まれてから父の叔梁紇が亡くなりました。父の遺体は防山に葬られたのですが、母が野合だったのを嫌って孔子には父の墓を内緒にしました。もしかしたら、父の墓だけではなく、孔子は自身の父についても,母から詳しくは話してもらえなかったのかもしれませんね。孔子は子どもの時から遊ぶにしても,礼器を並べて礼式を整えていたそうです。後の片鱗がおもいっきり表れていますね。孔子の母が亡くなると、孔子はかりもがりをしました。礼に則って父と母を合葬しようとしたから、と「史記」は書いています。もちろん、それもあると思いますが、僕は父の墓所を探す口実にする意図もあったのではないかなと思っています。つまり、合葬をするから父の墓所を教えてくれと言うことです。というのも、父と母の遺体を合葬することは,礼にも孝にもかなった行為だからです。しかし、孔子は「論語」の里仁扁で「三年父の道を改むる無きは、孝と謂うべし」と言っています。ここでは、「父」といい、孔子に父の墓を教えたくなかったのは「母」ですが、やはり同じことです。何故なら、儒教では家族の中で父が最も尊ばれますが、母も同じくらいに尊ばれるからです。それに孔子が生まれてすぐに,父は亡くなっています。ということは、孔子にとって母は父の代わりでもあったわけですね。つまり、母が亡くなったため、父の墓を知る障害がなくなり,父にも孝を尽くしたいが、それでは母の考えと違うため、それを正統化にする根拠が父と母の合葬ではなかったかということです。まぁ、穿った見方をし過ぎかもしれませんが、素人の浅知恵と思い、ご容赦を。結局、葬車ひきの母親から父の墓のありかを教えてもらい、孔子は無事、父と母を合葬しました。どこの時代、どこの場所でもお節介焼きはいるものですね。果たして、孔子の父と母はそれを望んでいたのやらと言う感じですがね。

だいぶ、細かい説明や時代背景を飛ばして,何とか孔子の出生から世に出る前までは書けましたね。前回の「素王の歩んだ道①」にも書きましたが、歴史好きが好き勝手に書いているだけなので,間違った解釈だらけだと思いますが、温かい目で見守っていただけたら幸甚の至りです。

投稿日時:2022年08月17日 10時39分21秒

春の中国史祭り

こんにちは。Sです。
以前から書いている孔子のことをそろそろ書こうかなぁって思ったんですけど、時間が空いたことで、またみなさんに紹介したいものがいろいろありましたので、今回はそれを紹介させてください。二つありまして、本とYou Tubeのチャンネルです。

一つ目の本は「古代中国の日常生活-24の仕事でたどる1日-」です。2022年2月に発売されたばかりの本です。この本では古代中国の24時間をいろいろな仕事にスポットを当てて紹介しています。この作品の優れたところは古代中国の生活を物語形式でえがいていることです。それも、かなり活き活きとえがかれており、まるで登場人物が目の前に現れて、彼ら彼女らの姿を通して本物の古代中国の生活を目の当たりにしているような錯覚に陥るほどです。若干オーバーに表現しましたのは僕がそれほどの衝撃を受けたからです。この衝撃は今までに読んだ本の中でも上位にくるものでした。たぶんトップ10には入りそうです。最近出た古代中国の生活をえがいた本としては「古代中国の24時間-秦漢時代の衣食住から性愛まで-」が有名ですが、こちらは上記の本を読んでから読むことをおすすめします。かなりの良作ですが、上記の本と同じく物語形式を取っているわりには説明文が多めで講義を受けている形式に近いので、古代中国にある程度の興味や関心がないと、読破は難しいのではないかと個人的には思っています。ただ、この本は、さすがは古代中国史の研究者が書いただけあるという感じで,微に入り細に入り、古代中国の生活がえがかれていて貴重な一冊です。もし、古代中国の沼にどっぷりハマっていただけたなら「中国古代の生活史」 (歴史文化セレクション)と「ある地方官吏の生涯-木簡が語る中国古代人の日常生活-」も楽しんで読んでいただけると思います。特に「中国古代の生活史」 の方は古代中国の生活史の古典に近い本なので、ここまで読まれる方は、ぜひ直接会ってお話がしたいレベルですね。古代中国史の話で盛り上がりたいです。ちなみに、古代中国ということで言えば、2022年の5月現在、古代中国の展覧会として「兵馬俑と古代中国〜秦漢文明の遺産〜」が全国4会場を絶賛巡回中なので、訪れてみることをおすすめします。京都、静岡、名古屋、東京ですね。個人的には漢代の兵馬傭にしびれました。秦の兵馬傭は、大学時代に、東京で兵馬傭展が開催されたときに見ていましたが、漢代の兵馬傭は今回初めて見たので印象深かったです。プラモみたいに組み立て式になっているんですよ。秦の兵馬傭は大型なので想像がつきますが、漢代の兵馬傭は縮小したのに組み立て式なんだって変なところで感心しました。古代のマニュファクチュアですね。組み立てられる前の傭も飾られていましたよ。それと、いらっしゃるかはわからないのですが、古代中国の思想に興味がある方は物語形式というか、対話形式で老荘思想を説明している「このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる自己啓発の到達点「老子」「荘子」の考え」もオススメです。この本も僕が衝撃を受けた本のトップ10に入ります。そのうち、僕が衝撃を受けた本のランキングとかも紹介させていただきたいですね。あっ、ちなみにこれも詳しくは説明しないのですが、最近読んだ本で、大漢和辞典を編纂した諸橋轍次先生の書いた「荘子物語」も面白かったので、お時間のあるときにみなさんもお手にとってご一読してみてください。

二つ目のYou Tubeチャンネルは「鳥人間 中国史三昧」です。このチャンネルは僕がいろいろと見てきた中国史系のYou Tubeチャンネルのなかで最も優れたチャンネルです。特徴としましては前近代を網羅する動画の種類とここを一番推したいのですが、地図を多用しているところです。中国史に限らず、歴史をやっていると、地理関係がわからずに悩むことが多々あります。だから中学では地理と歴史は並行して学ぶところが多いのかもしれませんね。それはともかくとして、このチャンネルは地図で地理関係を示して僕たち視聴者に、今話している内容がどこらへんで起こったことかを理解する手助けをしてくれます。ちなみに中国史関係の資料というか、文物というかそういうものもたくさん使われていて面白いです。個人的には、故宮博物院が作った清の雍正帝のコラ画像と、北宋の狄青のフィギュアがお気に入りです。さらに、このチャンネルは基本的に人物史が中心的なのですが、社会・経済史まで取り上げて説明してくれるので、各時代の中国史を楽しく学ぶことができます。まず入門として、明の万暦帝の動画などはいかがでしょうか、と言いたいところなのですが、僕のような仕事をしている人が明の万暦帝をおすすめするのはちょっと気が引けるので、唐の太宗 李世民の動画などはいかがでしょうか。少し前に、「100分de名著」で紹介されていた「貞観政要」の主人公的ポジションの人です。隋唐交代期に英雄として活躍する物語から玄武門の変での苦悩、さらには貞観の治と呼ばれる優れた政治を行った名君としての姿まで太宗の波瀾万丈の人生はみなさんを魅了することでしょう。また、番外編として、唐の太宗のパーソナルな部分に焦点を当てた回も面白いですよ。特に隋末唐初の混乱期の活躍は、地図がないと、ちょっと理解しにくいという僕の言葉を実感していただけるでしょう。
このチャンネルはぜひおすすめなので一度見てみることを推奨します。

さて、今回はこの辺にしておきます。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

投稿日時:2022年05月23日 10時48分18秒

歴史のお年玉

あけましておめでとうございます。Sです。前回までは「孔子と論語」について書いていました。しかし、今回は一年の初めなので趣向を少し変えまして、去年一年で出会った歴史のYou Tubeチャンネルやドラマについて話をさせてください。
まず、You Tubeチャンネルについてです。今、僕が一番注目しているチャンネルが「古代ローマが面白い」です。名前の通り、「古代ローマ」をテーマにしたYou Tubeのチャンネルです。ポエニ戦争やガリア戦記など、古代ローマ史では定番の内容だけではなく、ミトリダテス戦争やカティリナ弾劾など、少しマニアックな内容までわかりやすくまとめてくれています。さらに古代ローマの食事やローマン・コンクリート、ウェスタの巫女についてなど、多岐にわたるテーマをさまざま取り上げています。古代ローマ史を全然知らない初心者からガチ勢まで楽しめること請け合いのチャンネルです。初めて見るときにオススメの動画を一つ上げるとしたら「ガリア戦記①」を見てみてください。あの有名なガリア戦記の冒頭を丁寧に、しかし、チャンネル運営者の独自の解釈も紹介しながら説明していて、とてもおもしろいです。

次に、歴史ドラマについてです。去年見た歴史ドラマで一番面白かったのは「項羽と劉邦」です。実はこの作品は以前に紹介した「三国志 three kingdoms」を制作した高希希監督の作品です。この監督の作品は単純に面白いだけではなく、独自の歴史解釈や人生訓まで含んでいてとても素晴らしい監督だと思っています。この作品の一番の見どころは劉邦の描き方です。「項羽と劉邦」はもともと「史記」や「漢書」で描かれている紀元前3世紀の争いです。この時代を題材にした作品としては司馬遼太郎や横山光輝の「項羽と劉邦」が日本では有名だと思います。先に申し上げておきますと、司馬先生も横山先生もどちらもすばらしい作家で、お二人の「項羽と劉邦」も必見の作品です。しかし、上記の作品を見ても、おそらく、なぜ劉邦が項羽に勝てたかはしっくりとこないと思います。少なくとも僕はこなかったです。その点は「史記」と「漢書」も同様です。しかし、高希希監督の「項羽と劉邦」を見れば、一つの答えを得られると思います。決して、それが唯一無二の正解だとは思っていませんが、この作品ほど、劉邦と向き合った作品を寡聞ながら僕は知らないです。いきなり高希希監督の「項羽と劉邦」から見ると、たぶん話が難しいと思いますので、司馬先生か、横山先生の「項羽と劉邦」を見てから高希希版の「項羽と劉邦」を見ると、見た人それぞれの劉邦が現れると思います。この点については、また回を改めて話せたらとおもっています。
今回はここまでにしておきます。今年一年楽しめる歴史のYou Tubeチャンネルとドラマを紹介させていただきました。ありがとうございました。

投稿日時:2022年01月11日 16時34分28秒

素王の歩んだ道①

こんにちは。Sです。

最近,おかげさまで仕事も私生活も忙しくて,以前にブログを書いた日から,少し時間が空いてしまいました。しかし,前回もお伝えしたように,みなさんに孔子の生涯を紹介したいという気持ちは少しも衰えていないので,その点はご安心ください。

ところで,今回からしばらく孔子の生涯について書くのですが,基本的に以下の書籍を使用して話を進めていきます。

「史記」中 司馬遷.著 野口定男.訳 平凡社版 中国の古典シリーズ1

「史記」はみなさん,御存知でしょうか。これから中国古代史を話す時は,基本的に「史記」をもとにしていきますので,この機会に簡単に紹介をさせてください。

「史記」は紀元前1世紀ごろ,漢の武帝期に司馬遷によって書かれた中国の正史の一つです。ちなみに,正史とは王朝が認めた正統な歴史という意味であり,正しい歴史という意味ではありません。「史記」は全130巻で本紀12巻,世家30巻,書10巻,表8巻,列伝70巻からなり,孔子の生涯は「孔子世家」にまとめられています。世家とは何かということまでどんどん掘り下げていくと,孔子の生涯を書かずに終わってしまいそうなので,もし機会があれば「史記」についてもまとめます。

孔子は春秋時代の魯の国の出身です。春秋時代は紀元前770年ごろから紀元前5世紀後半までの時代であり,漫画「キングダム」がえがいている戦国時代の一つ前の時代です。春秋時代がどういう時代だったかは,孔子を語っていくうえでとても大事なことなので,要点をまとめて紹介します。もしかしたら,孔子が生れるところまでいかないかもしれませんが,これは重要なことなのでご了承ください。春秋時代は,周(幽王の時代)が四夷の一つである犬戎に攻められて都を鎬京から洛邑に移したころを始まりとしています。不勉強のため,専門的には周と春秋時代ではどのような時代的な差異があるとされているかは知りません。そこで僕の個人的な解釈でお話をしますと,周の時代はその名の通り,周王朝が諸侯をゆるやかにではありますが,統治をしていた時代だと思っています。春秋時代は諸侯が周王朝の権威を利用しながら,独自に諸国を統治したり周辺の国と争ったりしていた時代だと思っています。細かく時期(春秋時代の前半,後半)や地域(楚,呉,越など)を見ていくと正しくないところもありますが,おおざっぱにそういう時代だと認識してください。ちなみに春秋時代は,孔子が書いたとされる「春秋」がこの時期を扱っているためについた名称です。ついでに言いますと,戦国時代は劉向の「戦国策」にちなんだ名称であり,日本の戦国時代は当時の公家が今の世は中国の戦国時代のようだ,といったことからついた名称です。話を戻しますと,春秋時代の終わりはこれも諸説ありますが,大きく分けて2つあります。紀元前453年と紀元前403年です。この二つの年に何があったかを語り始めると,今回のブログが長くなりすぎるのでここまでとします。

孔子の生涯までたどり着けませんでしたが,歴史好きが歴史を好きなあまり,いろいろなことを語りすぎてしまっていると思い,温かい目で見守っていただけたらと思います。

投稿日時:2021年05月21日 20時11分05秒

『論語』と孔子

こんにちは。Sです。

今年の大河ドラマ「青天を衝け」が先月から始まりましたね。主人公の渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも呼ばれており,代表的な著作に『論語と算盤』があります。この本については守屋淳さんの抄訳(ちくま新書)や100分de名著の4月の名著としても紹介されています。ところで,『論語』とはどのような作品か,みなさんご存じでしょうか。この本は,儒学の始祖とされる孔子の言行録を,孔子の死後に弟子たちがまとめたものです。その教えは日本人にも大きな影響を与え,その痕跡が現在の日本語にも多く残されています。例えば,「温故知新」や「不惑」などがあります。

『論語』は儒学の重要な書物ではありますが,儒学の経書である「五経」に含まれていないことは御存じでしょうか。「五経」とは,儒学の基本経典として最も尊重された五つの書物の総称で,『書経』,『易経』,『詩経』,『春秋』,『礼記』がそれにあたります。ちなみに余談になりますが,経書があれば緯書もあるのかといえば,実はかつて存在していました。緯書は前漢末から後漢にかけて作られた書物で,儒教の経義に関連させながら予言・禍福・吉凶などを説いたものです。『三国志』を好きな方ならご存じかもしれませんが,袁紹の弟袁術が皇帝に即位する際に口実とした「漢に代わる者は当塗高なり」ということばは,『春秋』に関する緯書の中にある予言のことばです。しかし,緯書はのちに禁書となって,今は逸文だけが伝わっています。余談ついでにもう一つ申しますと,昨年から本年度にかけて放送されていた「麒麟がくる」の「麒麟」はもともと,王が仁政を行うときに現れる神聖な生き物として『礼記』にでてきます。さらに,『春秋』左氏伝は,孔子が生きていた時代に麒麟が現れたのですが,捕らえた人々が平和の象徴である麒麟とは知らずに打ち捨ててしまったことを孔子が惜しんで筆を擱くことで終わっています。これが物事の終わりを表す「獲麟」の語源です。

『論語』は「五経」に含まれないというところまで話を戻します。この『論語』を「五経」と並ぶ儒学の重要経典としたのが,南宋の儒学者朱熹でした。朱熹は『論語』,『孟子』,『大学』,『中庸』をまとめて「四書」とし,「五経」に先んじて読むべきとしました。朱子学では「四書」をテクストとして尊重し,やがて朱子学が国学になると科挙の出題科目にもなってそれまで以上に重要視されるようになりました。ただし一言付け加えると,科挙の出題科目となったり,江戸時代には朱子学が幕府の御用学問になったりしたことで,『論語』がこれまで以上に重要視されるようになったことは事実ですが,『論語』はその前から広く親しまれており,長い歴史の中で東アジアの文化に大きな影響を与えた本でもあります。

ここまで,なぜとりとめもなく『論語』について書いてきたのかというと,次回以降,孔子の生涯について書きたいと思っているからです。そのため,『論語』がいかなる書物かということを変化球気味にここまで語り,みなさんに興味を持ってもらい,それから孔子の話をしようと思ったからです。ちなみに,『論語』を読む際の入門としておすすめなのが,『まんが 森哲郎『論語』完全入門』(講談社)。この本は,論語の1文ずつの解説と教訓を4コマ漫画仕立てで紹介しているものになります。『論語』に興味を持った方はぜひ一読してみてください。

投稿日時:2021年03月16日 11時28分20秒
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