いぶし銀の戦国武将
こんにちは。Sです。
みなさんは昨年末にテレビ朝日で放送された「戦国大名総選挙」を視聴されましたか。その放送では,僕が最も好きな戦国大名の織田信長が1位でした。信長は以前に1度取り上げましたので,今回は信長の次に好きな戦国時代の人物として黒田官兵衛をご紹介します。
黒田官兵衛が家督を継いだころ,彼が生まれた播磨国は東から織田家,西から毛利家の勢力が伸張していました。このころ,どちらの勢力に与するかで,官兵衛が仕えていた小寺家の家中はもめていました。家中の大勢は毛利家につくというものでしたが,その中で織田家につくことを官兵衛は強く主張しました。官兵衛は織田家と毛利家に関する情報分析を合議の場で披露し,家中の意見を織田家でまとめることに成功しました。
その後,黒田官兵衛は中国方面を任された羽柴秀吉の配下として播磨国の諸将を説得し,織田家の側に引き入れる工作に着手します。しかし,ここで問題が発生します。摂津国の有岡城で,荒木村重が信長に対して謀反を起こしたのです。当時,秀吉らの軍勢は東播磨の三木城で,同じく信長に反旗を翻した別所長治を攻めているところでした。村重と長治が毛利側についたことで,秀吉の軍勢は信長との連絡を絶たれてしまいました。しかも,この動きに呼応して,官兵衛の主君の小寺政職も毛利家につくという噂が流れました。こうした中,官兵衛は村重を説得するために有岡城に向かい,その後,消息を絶ってしまいます。これに対して,信長は官兵衛が村重に同心したものとみなし,人質となっていた官兵衛の息子の松寿丸を殺すように秀吉に命じます。しかし,秀吉の配下の竹中半兵衛が,「官兵衛はすでに信長様の味方であり,忠義の志が深い。加えて才能がある者なので,強い味方(信長)を捨てて,弱い敵(村重)につくはずがない。」(『黒田家譜』)といって松寿丸をかくまいました。また,家臣たちも,官兵衛は信長を裏切っていないと考え,一致団結して黒田家を支えるという起請文を書いています(「黒田家文書」)。実は,有岡城に向かった官兵衛は村重に捕らえられて牢に閉じ込められていました。この幽閉は1年間に及び,官兵衛は助けられるのですが,あまりにも過酷な幽閉であったために官兵衛は膝を悪くして頭髪も抜けてしまいました。それでも,官兵衛はこの幽閉を最後まで耐え抜いたのです。
僕はこのエピソードに,黒田官兵衛の人となりが凝縮されていると思っています。織田家と毛利家のいずれにつくべきかを判断するとき,官兵衛は事前に両家の情報を集めて分析しています。そのうえで織田家につくべきと判断し,その後は自分の判断を疑わずに一貫した行動をしています。この態度は幽閉されてからもぶれることはありませんでした。ここからは僕の推測ですが,主君の小寺政職とは違って,官兵衛がその態度を平素から示していたからこそ,ピンチの時に家臣や周りの人間が官兵衛を信じてくれたと考えています。つまり,官兵衛は平素から広く情報収集と客観的な情報分析をし,そのうえで自分のとるべき行動や態度を判断し,そうして判断したのちはぶれることなく,一貫した言動を採り続けられる人物ということです。
今回の話は,以下の本を主に参考にしています。
『黒田如水―臣下百姓の罰恐るべし―』小和田哲男 著 ミネルヴァ書房
比較的に入手しやすい本なので,ぜひみなさんも一読してみてください。