素王の歩んだ道②
こんにちは。Sです。
皆様、お盆はいかがお過ごしでしたか。僕は「史記」と「三国志」を堪能していました。中国古典はやっぱり楽しいですね。そう思うと同時に、注意していないと、中国古典の沼にはまりこんで,それしか読まなくなってしまう危険性を改めて感じていました。それでは孔子の言う「学びて思わざれば即ち罔し」となってしまうなぁと痛感しました。というのも,中国古典は面白いので,ついつい没入してしまうのですが、他の人の本を読んだり、解釈を聞いたりしないと、自分だけの解釈になってしまうからです。やはり、他の人の著作や考えから自分の解釈との差違を知り、切磋琢磨することが大切ですよね。ちなみに、「切磋琢磨」は「詩経」衛風・淇奥篇に出てくる言葉で、孔子も「論語」で,この言葉について触れています。その孔子について、今回は話していきたいと思います。出典は前回の「素王の歩んだ道①」をご覧ください。
孔子は魯国昌平郷陬邑(現在の山東省曲阜)で生まれました。この魯の国は孔子が最も尊敬している周公旦を起源とする国です。周公旦とは何者かを簡単に言うと、周建国の功臣の一人です。昔から疑問なのですが、もちろん周公旦は偉大な人物なのですが孔子は周公旦が自分の国にゆかりがある人だから,ことさらに持ち上げるんじゃないかなぁって思っています。まぁ、周公旦はまごうことなき、中国史の巨人なのですが。孔子の祖先は宋の国出身です。もちろんご存じとは思いますが、この宋は劉宋でも趙宋でもありません。殷の後裔が周に封建されて建てた国です。まぁ、中国古典の世界では,ちょっと残念な役回りが多い国です。ところで、これも面白いなぁって個人的には思うのですが、孔子は周王朝単推しみたいな人なのですが、その出自は殷とゆかりがあるんですね。でも、「論語」で殷が出てくるときは,たいていは紂王の事業であり、ネガキャンがすごいです。自分の出自よりも育った国にゆかりのある王朝をヨイショするのはちょっと面白くないですか?まぁ、孔子が生まれたときに実在したのが周王朝であり、これから出仕しようとしている国が,周とゆかりが深いからというのも,関係しているかもしれませんが。孔子は叔梁紇と顔氏の女とが野合をして生まれた子です。野合とは正式な手続きを経ずに,男女が結ばれることです。孔子は礼楽の鬼みたいな人物なのですが、自身の生まれは礼に則っていないようです。あえて言う必要はないかもしれませんが、僕が言いたいことは,それがいいとか悪いとかの話ではありません。孔子は,自分の出自と生き方が自身の理想とマッチしていなくても,それでも自分の理想を追い求めていたということで、そこが孔子のカッコいいところです。ちなみに、こういったことは,孔子のこのあとの人生でも常につきまとい、それでも自身の理想に向かって歩み続けているところが,孔子の注目ポイントです。孔子は生まれてみると、頭の中央がくぼんでまわりが高かったので,「丘」と名付けられました。生まれてすぐ容姿をいじられるという,今の倫理観的に問題のある名付け方ですね。このエピソードと、先ほどのエピソードから,孔子の家系はそれほど高貴ではなかったのかなって思っています。まあ、一概には言えないのですが。「史記」はこのように,孔子の名の由来を話していますが、同じ「史記」の記述で「尼丘」で祈って,孔子を授かったとあるので,個人的にはそちらが由来ではないのかなぁって思っています。というのも、孔子の名を「丘」といい、字を「仲尼」というからです。字の「尼」と名の「丘」で「尼丘」というわけです。字とは簡単に言うと、呼び名みたいなものです。古代中国では,名を呼べるのは親と主君だけで、それ以外の人が名を呼ぶのは失礼とされました。そのため、名の代わりに字を付けてそれを周囲の人に呼んでもらいました。基本的に、字は名と関わりの深い言葉が選ばれる傾向にあります。ちなみに、「仲」は次男という意味です。これは完全に余談ですが、漢の高祖劉邦の字は「季」といい、意味は末っ子です。明の洪武帝は名を「重八」といい、これは「八番目に生まれた男の子ども」という意味です。日本でも太郎、次郎と言うように,生まれた順番を名前とするのは日中で共通する文化なんですかね。孔子が生まれてから父の叔梁紇が亡くなりました。父の遺体は防山に葬られたのですが、母が野合だったのを嫌って孔子には父の墓を内緒にしました。もしかしたら、父の墓だけではなく、孔子は自身の父についても,母から詳しくは話してもらえなかったのかもしれませんね。孔子は子どもの時から遊ぶにしても,礼器を並べて礼式を整えていたそうです。後の片鱗がおもいっきり表れていますね。孔子の母が亡くなると、孔子はかりもがりをしました。礼に則って父と母を合葬しようとしたから、と「史記」は書いています。もちろん、それもあると思いますが、僕は父の墓所を探す口実にする意図もあったのではないかなと思っています。つまり、合葬をするから父の墓所を教えてくれと言うことです。というのも、父と母の遺体を合葬することは,礼にも孝にもかなった行為だからです。しかし、孔子は「論語」の里仁扁で「三年父の道を改むる無きは、孝と謂うべし」と言っています。ここでは、「父」といい、孔子に父の墓を教えたくなかったのは「母」ですが、やはり同じことです。何故なら、儒教では家族の中で父が最も尊ばれますが、母も同じくらいに尊ばれるからです。それに孔子が生まれてすぐに,父は亡くなっています。ということは、孔子にとって母は父の代わりでもあったわけですね。つまり、母が亡くなったため、父の墓を知る障害がなくなり,父にも孝を尽くしたいが、それでは母の考えと違うため、それを正統化にする根拠が父と母の合葬ではなかったかということです。まぁ、穿った見方をし過ぎかもしれませんが、素人の浅知恵と思い、ご容赦を。結局、葬車ひきの母親から父の墓のありかを教えてもらい、孔子は無事、父と母を合葬しました。どこの時代、どこの場所でもお節介焼きはいるものですね。果たして、孔子の父と母はそれを望んでいたのやらと言う感じですがね。
だいぶ、細かい説明や時代背景を飛ばして,何とか孔子の出生から世に出る前までは書けましたね。前回の「素王の歩んだ道①」にも書きましたが、歴史好きが好き勝手に書いているだけなので,間違った解釈だらけだと思いますが、温かい目で見守っていただけたら幸甚の至りです。