ポップな話「秋が終わるということ…」

お世話になっております。
日増しに寒くなっていて、冬の訪れを遠からず感じております。

さて、レモンは冬が旬だそうです。

暖かい場所で栽培されるイメージのためか、レモンの旬は夏だと思っていました。
(耐寒性がそれほどない、という性質もあるそうです。)

実際に、広島の瀬戸内レモンの露地栽培は、夏には行われていないようです。
ただ、1年中出荷しているようです。(広島県のホームページより)

シチリアのレモンは、1年中花も実もなっても、夏が旬ではないそう。(ネット調べ)

みなさまが生レモンとともに楽しく穏やかに冬を過ごすことを祈っております。

NK

投稿日時:2023年11月27日 14時40分55秒

綱引きの力学

こんにちは,Yです。

ようやく秋めいた気温になってまいりました。
しかしながら,朝晩は長袖1枚では寒く,既に秋も過ぎ去りかけているのではないかと疑ってしまうような気候です。秋にはまだとどまっていてほしいです。

さて,秋といえば運動会だな,と思う方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。一方で,いやいや,運動会は春開催でしょう,という方も多くいらっしゃると思います。

何人かで集まってこの話題になると大体盛り上がりますが,そんな感じで運動会の話題になるたびに,私は「なぜ綱引きでは腰をおとして上を向いたほうが有利なのか」を力の分解で説明してくれた恩師を思い出します。

重要なのは綱と腕のなす角度です。
腕が綱を引く力を,綱に垂直な向きと綱に平行な向きの2力に分解すると,腕が綱を引く力の大きさが同じでも,綱と腕のなす角度が小さいほど綱を平行に引く力が大きくなります。つまり,腰をおとして上を向くことによって腕をたおし,綱と腕の角度を小さくしたほうが綱を平行に引く力が大きくなって有利,ということです。

ネットで検索して出てくる強いチームの綱引きの写真では,綱を脇にはさんで引いているチームもありました。こうなるともう,綱と腕のなす角度は0です。腕が綱を引く力がほぼすべて綱を引く向きと同じ向きにはたらくということで,効率が良いのだろうなと思います。

もちろん,この姿勢が綱引きに有利な理由はこれだけではないと思います。
でも,学校で習ったことが日常生活とつながると楽しいですよね。
恩師がこの解説をしてくれたとき,「おお!」と感動したことを覚えています。クラスメイトの反応はいまいちだったので,私が鈍かっただけかもしませんが笑

というわけで,今回はめずらしく理科の内容でした!

投稿日時:2023年10月19日 16時04分53秒

ポップな話「夏が終わるということ…」

あっという間に2023年も残すところあと3分の1ですが、悲観することはありません。
天高く馬肥ゆる~がやってまいりました。

スーパーに行くたびに、「なす!」「きのこ!」「さけ!」「かつお!」「梨!」「桃!」「ぶどう!」と喜んでおります。

コンビニでは、月見団子とおはぎを差し置き、すでにハロウィン仕様のおかしが売られています。
大須の自動販売機では、甘栗と焼き芋が売っていました。

まだ暑い日が続いておりますが、最高気温は下がってきております。
そのうち始まる寒暖差にお気をつけてお過ごしください。

NK

投稿日時:2023年09月07日 10時46分16秒

久しぶり!

こんにちは,Yです。

昨日SNSをぼんやり見ていたところ,真っ赤なフラペチーノの写真と「新作美味しかった!」のコメントをあわせた投稿があふれていました。

そういえばスタバの新作フラペチーノが出るとか出ないとか言ってたな…
どうやらスイカ味らしいけど,スイカ味のフラペチーノってどんな味なんだろう。

そんな軽率な動機で,今朝スタバに寄ってフラペチーノを購入しました。

ぼんやりしながらフラペチーノをつくる店員さんを見ていると,ペンでカップに何かをかいている様子を見かけ,お!久しぶりだ!懐かしい!と,少しテンションが上がってしまいました。

スタバは,今はシールになってしまいましたが,昔はカップに手書きで商品名をかいて,それをもとに店員さんがドリンクをつくっていました。

そのときにかわいいイラストをかいてくれる店員さんや,メッセージをかいてくれる店員さんがいたりして,そんなカップをもらったお客さんがSNSに写真をアップして盛り上がっていたのを思い出してしまったのです。

今ではほとんど見かけずちょっと寂しい気もしますが,時間短縮とか,ミスがないようにとか,いろいろ事情があるのだろうなとは思います。だからこそなのか,今日の久しぶりの手がきイラストがすごく嬉しかったのです。

ちなみに,今日かいてもらったのはスイカのイラストでした。が,フラペチーノは思っていたよりスイカ味ではありませんでした。
これは私が調べなかったのが悪いのですが,スイカ味はジュースだけで,ドラゴンフルーツとキウイも入っていたのです。思っていたのと少しちがう味でしたが,夏を感じる味で美味しかったです。


さて,弊社は明日から夏休みでございます。
私もいくつか予定がありますが,台風によってどれだけ中止になるのか,逆に楽しみになってきています笑

皆様もくれぐれもお気をつけてお過ごしくださいませ。

Y

投稿日時:2023年08月10日 17時49分24秒

夏期休業のお知らせ

平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。
誠に勝手ながら,夏期休業日を下記のとおりとさせていただきます。

夏期休業期間:2023年8月11日(金)~2023年8月16日(水)

ご不便をおかけいたしますが,何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。

投稿日時:2023年07月28日 12時10分53秒

終わりが見えない

こんにちは,Yです。

絶対にかなえたいわけではないけど,できれば一生に一度くらいは経験してみたいことってありますよね。
例えば,47都道府県制覇したいとか,宝くじで高額賞金当てたいとか笑

私にもそういった消極的な夢がいくつかあります。
そのうちの1つが,「山崎育三郎さんの歌を生で聴きたい」です。

私はミュージカルに詳しいわけではないので,失礼ながら山崎育三郎さんはテレビで知りました。 テレビを通してでもこんなに歌がうまいのに,生で聴いたらそれはどれだけの衝撃なんだろう。

そう思い始めて2年ほど経った先日,「ファインディング・ネバーランド」という,山崎育三郎さんが主演のミュージカルを観劇したことで,その夢がかないました。

とても良いミュージカルでした。
特に印象深かったのは,山崎育三郎さん演じる主人公が,周りの人たちから理解されずに落ち込んで,その心の内を吐露する歌唱シーンです。独唱だったので山崎育三郎さんの歌を余すところなく聴けたのがよかったのと,歌がうますぎてあんまり悲しそうに見えなかったのがちょっと面白かったです笑

このとき,一緒に観劇したのは山崎育三郎さん好きの友人でした。
観劇後に「すごかったね」「よかったね」と感想を言い合っていたのですが,最後に友人から衝撃的な一言。

「でも山崎育三郎さんのかっこよさはエリザべートのほうが上かな」

私の消極的な夢が新たにできた瞬間でした。
せっかく夢を1つかなえてすっきりしたところだったのに…!

ミュージカル「エリザベート」は,帝国の皇后と黄泉の帝王の禁じられた愛を描いた話らしいのですが,昨年の公演にて,山崎育三郎さんは黄泉の帝王を演じていたのです。「ファインディング・ネバーランド」の主人公とはかなり方向性の異なる役で,たしかにかっこいいだろうなぁ,と気になって仕方がありません笑

いつかまた上演,出演されるときがきたら観劇に行きたいなぁと思います。
そしてその夢がかなったあとには,また別の作品が観たい!となっているに違いありません。

Y

投稿日時:2023年07月14日 15時38分10秒

中国古典の世界①

こんにちは。Sです。

僕は,歴史に勝るとも劣らないくらい中国古典が好きです。中国古典を読むと,ものごとを見る時の新たな視点を提供してくれたり,自分の固定観念を崩してくれたりする感じがとても面白いからです。それに,悩み事があったり,どうしたらいいか迷うことがあったりしたときに,中国古典を読むと,昔の賢人が自分にそっと寄り添って悩みや迷いを聞いてくれる感じがするのも読んでいて楽しいです。また,僕という人間の本質的な部分が中国古典と相性がいいのだと思います。今回からのシリーズでは、そんな僕がおすすめする中国古典の一節を紹介していきたいと思います。記念すべき第一回目は僕の座右の書である、「菜根譚」洪自誠 著(岩波文庫)にある後集132の一節をどうぞ。

〈書き下し〉
世人は営利の為に纒縛せられて、動もすれば塵世苦海と曰う。知らず、雲白く山青く、川行き石立ち、花迎え鳥咲い、谷答え樵謳うを。世もまた塵ならず、海もまた苦ならず、彼自ら其の心を塵苦にするのみ。

〈現代語訳〉
世間の人々は名利の念に束縛せられているので、とかく此の世を塵世だとか苦海だとかいいがちである。しかしそれは自然の美しさを知らないからだ。空には雲は白く山は青く、川には清らかな水は流れ岩はそばだち、野には美しい花は咲き鳥はよい声で歌い、谷にはこだましきこりは歌っているのを。(この自然の美しさを知れば)この世は塵世でもなく苦海でもない。世間の人々は自分で自分の心を束縛し塵世だ苦海だとしてしまっているだけである。 日々生活をしていると,うまくいかなかったり,思い悩んでしまったりして,後ろ向きな気持ちになることがあります。そんなときにこの一節を読み,少し散歩をすると,気分がリフレッシュされて,新たな一歩を歩むことができます。たぶん,気持ちと身体がリフレッシュされるのだと思います。みなさんは,この一節にどんなことを感じましたか。もし機会があれば,教えて頂けると幸いです。ここまで読んでいただき,ありがとうございます。

投稿日時:2023年06月23日 13時56分35秒

素王の歩んだ道④

こんにちは。Sです。

最近,このブログに書きたいことがたくさんたまってきています。「戦国策」,長平の戦い,楚漢戦争,「司馬懿 軍師連盟」,終わりなき混沌の時代 五胡十六国時代,偉大なる黒くて丸いおじさん宋の太祖 趙匡胤,乞食坊主からの成り上がり皇帝 朱元璋と大軍師 劉基,政治のオーガ 雍正帝,孫文と毛沢東などなど。あるいは,たまには古代ギリシャ・ローマ史も書こうかなぁって思ったりもします。ソクラテス・プラトン・アリストテレスの三点セット,「ローマの盾」クィントゥス・ファビウス・マクシムスと「ローマの剣」マルクス・クラウディウス・マルケルス,パーフェクト司令官 スラ,テレワーク皇帝 ティベリウス帝とかとか。でもあえて,今回も前回に引き続き,孔子の生涯を書いていきます。理由は単純で,面白いからです。前回,孔子の生涯をブログに書いていたら,筆がいい感じに乗ってきたところで,前回は終わってしまったので,今回はその続きから書いていきます。

さて,前回,老子からありがたい言葉をもらった孔子はその後どうなったのでしょうか。孔子は周より魯に帰っていました。礼を学ぶために周の国へ行っていたはずですが,特に具体的な描写はありません。ただ,ここから,孔子は物知り博士的な活躍をすることになります。だから,何か学んだのでしょう,たぶん。当時,魯の国は周囲を晋,斉,楚の勢力に囲まれていました。基本的には,魯は斉との関りを語られることが多いのですが,小国の悲しさというか,実際は全方位平身低頭外交でした。魯の昭公20(前522)年,斉の景公が晏嬰とともに魯にやってきました。この時,斉の景公が魯に来た理由は不明であり,「史記」の斉太公世家も魯周公世家も「魯の郊外に遊猟し,魯を訪問した」としか記載がありません。魯周公世家には「礼をたずねた」とあり,この後の孔子との問答から,お人好しに解釈をすれば,礼の盛んな魯の国に遊学に来たとも考えられます。ちなみに,魯の国は周公旦ゆかりの国であるため,礼が盛んな国としても知られており,「史記」だけでなく,「戦国策」の中でもそのように記述があります(趙の武霊王の逸話など)。話を戻しまして,斉の景公の訪問目的ですが,普通に考えて強制外交の一環だったのでしょう。「遊狩」と聞くと,趣味の狩りでもしていたのかなと思うところですが,前近代で狩りといえば軍事訓練のことです。もちろん,本物の軍事訓練ほどの物々しさではありませんが,意味するところは同じです。相手に与える圧力としては「狩り<本物の軍事訓練<出師(軍隊を出動させること。ただし,まだ戦争状態には入っていない。)」という感じでした。時間は空いてしまいますが,「史記」の魯周公世家には,斉の景公の訪問の五年前に魯の昭公が晋を訪れて前代の葬儀に参列したと記載されています。これは,単に晋の葬儀に参列しましたという意味ではなく,晋の支配下にはいりましたということを意味するので,斉としては強制外交で魯を自分の支配下に置こうとしたのでしょう。もし魯が外国勢力の支配下にはいってしまうと,地理関係的に斉は喉元にナイフを突きつけられている状態になるためです。さて,魯に来た斉の景公ですが,孔子に会うと,こんなことをたずねました。「むかし,秦の穆公は国は小さくて僻地に位していた。それでいて,諸侯に覇を唱えることができたのはどうしてだろうか。」すると,孔子はこのように答えました。「秦国は小さくはありましたが志は偉大で,僻地に位していてもおこないは中正でありました。穆公自ら五羖(百里奚)を挙用して大夫の爵をさずけ,罪人として繋縛してあるなかから起用してともに語ること三日,その賢をみとめてこれに政権をさずけました。このようにしたのでありますから,王者になることもできたのであります。覇者にとどまったのは卑小というべきであります。」すると,景公はよろこんだ。(「史記」中 司馬遷.著 野口定男.訳 平凡社版 中国の古典シリーズ1)この問答はようするに,斉の景公が自身を秦の穆公に仮託して魯は私を覇者として認めるかという問いに対して,孔子が晏嬰を賢者の百里奚に仮託して賢者を用いて国を富ませた斉の景公は覇者どころか王者になるべきお方だと思うとお世辞を言っている箇所になります。実際の晏嬰は百里奚に比肩しますが,秦の穆公は名君であり斉の景公は暗君であるため,この孔子の発言は外交上のお世辞といえます。前回,季氏の臣下である陽虎とのやり取りで,孔子はお世辞が言えない人のように記載しましたが,このようにお世辞が使えることもありました。「論語」でも「史記」でも,孔子は実に人間らしく描かれており,以前にこのブログでも書いたかと思いますが,孔子の魅力はこの人間っぽさにあると僕は思っております。つまり,完璧な人間であろうとするが,時には己の弱さにくじけそうになることがあります。しかし,また前向きに自分の理想に向かって人生を歩んでいくのです。2500年以上の間,人々はその姿に惹きつけられてきたのでしょう。孔子の人生としてはほとんど進めることができませんでしたが,今回はここまでとします。最後まで読んでいただきありがとうございました。次回もご期待ください。

投稿日時:2023年06月01日 10時35分23秒

素王の歩んだ道③

こんにちは。Sです。

最近は私事が立て込んでしまい,ブログを書けていませんでした。しかし,今日は久しぶりに「素王の歩んだ道」シリーズを更新したいと思います。「素王」とは孔子のことです。今回も孔子のかっこいい人生を,みなさんと一緒にみていけたら幸いです。

父と母の合葬を済ませた孔子は,経書を抱えて勉学に励んでいました。そのころ,魯の大夫の季氏が士人を饗応しており,孔子も招待を受けました。ところが,季氏の臣下である陽虎に,孔子が若くて身分の低いことをとがめられて門前払いされてしまいました。ちなみに,この陽虎と孔子は顔が似ていたらしく,後年,孔子はそのせいでトラブルに見舞われてしまいます。さて,陽虎によって季氏から拒絶されてしまった孔子ですが,彼を認めてくれている人はおり,魯の大夫の孟釐子といいました。彼が死の間際に,自分の嗣子に孔子の弟子となるように遺言していました。彼がなくなると,嗣子の懿子と南宮敬叔が孔子のもとで礼を学ぶようになりました。この南宮敬叔は孔子の「七十子」といって,特に優れた弟子として有名であり,論語にも登場します。ここの対比がドラマチックで面白いですよね。政治の世界のトップとはそりが合わなかったが,同時期に自分の学問を不朽の物としてくれる弟子を手に入れていますね。これは僕の憶測ですが,季氏の邸宅に招待された際,陽虎へ取り次ぎに対する付け届けと,彼に媚びた姿勢を見せていれば,孔子は政界の大物とこの時にお近づきになれていたと思います。ただ,この後もたびたび出てきますが,孔子の不器用な性格のせいでそのチャンスを逃してしまいました。個人的な考えとしては,彼にとってはそれが正解だったと思います。話を戻しますと,弟子を得た後の孔子は,いろいろな職を転々としたり,諸国を放浪したりします。孔子はこのような経験を,この後も何度もします。政治家よりも思想家の方が向いていたのかもしれませんね。話は全く変わりますが,孔子は身長が九尺六寸(約2m)もあったらしく,人々から「長人」と呼ばれていたそうです。まあ,これは,中国の帝王によく付随するトンデモエピソードの一つかもしれませんが。先ほど,登場した南宮敬叔の口利きで,孔子は魯の使節として周の国へ行くことになりました。「史記」の書き方では,南宮敬叔が孔子に同行したいと魯の君主にお願いしたから,彼は孔子についていけることになったと書かれていますが,まあどうみても彼が頼んだから孔子は使節として周に行けることになったとしか読めませんよね,今までの経緯的に。それは置いておいて,孔子にとってはあこがれの周の国への訪問ということで,テンション爆上がりだったのではないでしょうか。しかも,この周訪問で孔子はある重要人物と出会ったとされています。それが,このころ周の国の守藏室の史(書庫の記録官)を務めていた老子です。この老子は,あの「老子」を書いた李耳のことです。二人が出会い,何を話したかは伝わっておりません(荘子の逸話などはあり)が,別れ際に孔子は老子から次のような言葉をもらいました。「わしは,富貴なものは人を送るのに財物をもって餞別とし,仁人は人を送るのに言葉をもって餞別にすると聞いている。わしは富貴にはなれない。そこで,仁という名をかりて,そなたに言葉をおくろう。聡明で深く事理を察していながら,死ぬような目に遭うのは,他人を誹議することが好きなものだ。非常に能弁でよく物事にゆきわたっていながら,その身を危うくするのは,他人の悪をあばくものだ。人の子たるものは,我をもっていてはいけないし,人臣たるものも,我をもっていてはいけない」(「史記」中 司馬遷.著 野口定男.訳 平凡社版 中国の古典シリーズ1)これについてもいろいろといいたいことはありますが,今日のところはこの一言でまとめさせていただきます。「かっこいい。」漢文の書き下しもかっこいいですが,漢文訳もかっこいいのが多いですよね。今日のところはこのあたりにしておきます。ここまで読んでいただき,ありがとうございました。続きを楽しみにしていてください。

投稿日時:2023年05月26日 19時02分53秒

いつも月夜に米の飯

 広辞苑(第六版)
 「毎晩明るい月夜で,毎日米の飯が食べられれば,こんな幸せなことはない」


インターネットで調べたころ,電気がない時代は明るい夜と,白い米は貴重だったことから生まれた言葉で,「苦労がない楽な生活」を表すとのこと。
「楽」というのが,白い米を手に入れる苦労なのか,夜に暗い中で作業しなくてよいということを指すのか想像しづらいですが。

また,実際には毎晩明るい月夜にはならない,毎日米の飯は食べられないという実現が難しい願望を表すとのこと。仮定法ですね。

わたくしめは,月が明るいと,ただ気分が良くなるだけですが,
昔の日本人の喜びがどれほどのものだったのか想像できません。
深夜に明るい電気の下でスマートフォンを使える便利さに慣れてしまっているからです。

便利な生活をこれからも享受できますように…。

本年度も啓明舎を何卒よろしくお願い申し上げます。

NK

投稿日時:2023年04月18日 14時47分07秒
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